宮城谷昌光『劉邦』
個と国家
作家生活25周年目の節目にあたる作品だ。中国歴史小説界の大御所、宮城谷昌光氏が2013年7月23日〜2015年2月28日の約一年半にわたり毎日新聞で連載していた本書。上・中・下の三巻にわかれるが、その下巻が、今月末に発売された。装幀:菊池信義、画:原田維夫(ギャラリー)。10年がかりで挑んだ『三国志』を完結させた直後、中国史上最も有名な人物の一人である劉邦への、満を持しての挑戦である。
氏は今回、項羽ではなく劉邦に焦点を当てた。『三国志』の前に『香乱記』という作品がある。そこでは項羽も劉邦も無視して、斉の田横という人物を主軸に扱った。かつての氏は、劉邦よりも、項羽の方が好みであったはずだ。連載開始前の2013年7月17日、連載から一年が経っての2014年9月11日にそれぞれ毎日新聞誌上にインタビューが掲載されたが、なぜ劉邦なのかについては判然としない(いちおう言及はある)。あとがきでは三国時代の司馬懿が王凌を騙した例を引き合いに出し(「われはあなたを裏切ったかもしれないが、国家を裏切ったわけではない」(このテーマは作中にも出てくる))、劉邦は個人としては筋が通っていないが、天下という視点に立った時には実は筋が通っているのではないか、ということを述べようとする。表向きには、『劉邦』という作品は、そのように読めば良いであろう。
いちおうの説明はそれでつくのだが、疑問は残る。なぜ著者は、あのような結末を許したのかということだ。劉邦について書く以上、その最期まで、あるいは作中で賢夫人として描かれていた呂雉の豹変まで描いてこそ、というものだろう。
宮城谷氏は、自らを劉邦に重ねすぎたのではないか。困窮の時代に他人に見えない「気」をみて自身の大望を託した経験と、亭長時代の鬱屈した劉邦とを重ね、最期を描ききることができなくなってしまったのではないかと、ふと勘ぐってしまう。
あるいは、『三国志』が、氏の考え方を根本的に変えてしまったのかもしれない。いずれにせよ、宮城谷文学の尺度は個人の情義を超えて、新しい地平を開きはじめたようである。
(eyecatch source:http://goo.gl/KZDvPf)
©たけと
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