Biblo


さっと読める書評サイト

*

森見登美彦「新釈走れメロス 他四篇』

      2014/10/21

 

 

オカシミと畏れが共存してまだら模様を生み出している。短編集である本作において完全なオカシミで構成されたものは「走れメロス」の一編しかない。腐れ大学生を描く「山月記」を始めとして他編は怪奇の薫りが鼻を激するのだ。

大きく二つに分けて、森見作品には二つの流れがある。一つは、夜は短し歩けよ乙女や四畳半神話体系を筆頭にする面白主義の流れ。もう一つはきつねのはなしや宵山万華鏡といった湿気った怪奇路線である。登場人物が複数の作品を跋扈しても、この溝を超えることは未だかつてなかった。作風と登場人物の毛色の観点から私はこの二つが繫がることはないだろうと高をくくっていた。浅はかである。事実、私は見事に一続きになった二つの融合に打ちのめされることとあいなった。

オカシミとは明朗な笑いである。滑稽さともいう。本気を見せれば見せるほど空回る登場人物が森見作品には頻出する。本気の空費が私たちの笑みを呼ぶのだ。空費は空費なのだが、「可笑しい」という価値観があるおかげで真の空費にはならない。「本気こそが報われる」というのが森見流ハッピーエンドの鍵である。しかし、報われなかったら……?

 

「どうすればいいのだ。己の空費された過去は?」

 

山月記の原作では李徴が、新釈では斎藤が虚空に叫ぶ。努力しても妄想しても内に拡張しても、あるときに気付いてしまう。行動の一切が徒労に終わっていることに。初めは期待しよう。少しすれば笑いに変わる。次に応援する。あげく、観衆は応援する自分に疲れ始める。地面に着陸しないまま漕ぎ手は次第に力つきていく。体力も情熱も冷えていくが、徒労を取り返すべく徒労を重ねて致命的に消耗する。後に何が残る? 自分を期待し応援し笑ってくれる観衆さえも消え失せて久しい。いたらいたで痛ましい自分の姿を隠したくなる。そう、この短編集は失敗した者たちが主人公を演じているのだ。最も恐ろしい顔は怒りでも呆れでもなく“笑顔からふと現実に戻った真顔”である。オカシミのある作品に跋扈する笑顔の裏には疲れた真顔が隠れていることを我々は忘れてはならない。

 

©たなかよ

 

 - たなかよ

ad

ad

  関連記事

山田英司『八極拳と秘伝―武術家・松田隆智の教え』

    人間は多面ダイスだ。人間同士が付き合うときには知り合 …

森見登美彦『きつねのはなし』

    「でもねえ、今でも思うんだけど、嘘だからなんだという …

ウニ『師匠シリーズ』

    「人が死んだらどこに行くか知っているか。どこにもいけ …

水越ひろ『関節技極意』

    この世に数ある武術書を読むにあたって我慢ならないこと …

山田英司『武術の構造——もしくは太極拳を実際に使うために』

    あなたは武術を実際に使えるものだと考えているだろうか …

森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』

    「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこん …

宮本武蔵『五輪の書』

    日本武道史上最強の武道家といえば、多くの人が宮本武蔵 …

森見登美彦『四畳半王国見聞録』

    「我々人類に支配可能なのは、四畳半以下の空間であり、 …

小野不由美『丕緒の鳥』

    屍鬼など、有名作品を手がける作者のシリーズ作品、人呼 …

ソポクレス『オイディプス王』

    オイディプスの名は“エディプスコンプレックス”のエデ …