川上弘美『センセイの鞄』
2014/10/09
センセイ。
ていねいになでつけた白髪、折り目正しいワイシャツ、灰色のチョッキ。高校時代に国語を教わったけれども、さして熱心に授業を聞いていたわけではない。「先生」でも、「せんせい」でもなく、センセイ。それは数年前、たまたま駅前の一杯飲み屋で隣り合わせたとき、名前がわからないのをごまかすためにそう、呼びかけたのがきっかけだった。
それなのに、いつからだろう。センセイ。こんなにも無性に、何度でもそう呼びたくなるようになったのは。思わず涙があふれそうになるこの感情を、わたしは知っている。切ない。胸がぎゅう、っと締め付けられて、いたい。ほんとうは距離を測ることもできたはずなのに。結局、それさえできないくらい想いはあふれてしまった。
ほんとうに伝えたいことは、ことばにすらしたくない。陳腐な表現でおわらせたくない。この先につづく未来があることを信じたい気持ちと、そうして、妙な強がりと。だから右往左往する。目を逸らしてみようとしたりする。けれども、ほかのひとじゃあ、だめなの。やっぱり、センセイじゃなきゃ、だめなの。
「ツキコさん」と言いながら、センセイはまっすぐに座りなおした。
「ワタクシと、恋愛を前提としたおつきあいをして、いただけますでしょうか」
はあ? とわたしは聞き返した。センセイ、それ、どういう意味ですか。もう、わたし、さっきからすっかりセンセイと恋愛をしている気持ちになってるんですよ。
センセイが、ほほえんだ。ほほえみながら、わたしのてのひらをふたたびセンセイはてのひらで包む。わたしは、センセイにかじりついた。わたしの方から、センセイの腰にあいた方の手をまわし、体を押しつけ、センセイの上着の胸のあたりの匂いをすいこんだ。かすかにナフタリンの匂いがする。
ぎゅう。センセイの存在を確かめるように。センセイとわたしとの境目が、なくなるくらいに。どれだけ抱きしめても足りない。ふたりの隙間を埋めるようにして、思い切り、ぎゅう、っと。センセイ、センセイ。
©しゅり
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