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綿谷りさ『インストール』

      2014/10/02

 

 

堕落の向こう

聖璽、という名は覚えていた。マンガ版を買ったのはたしか中学一年生の頃だったから、青春を存分に謳歌していた時期だと思う。そういう人間にとって、対照的なこの鬱屈とした世界はまるで、別次元のおはなしとして目に映る。だから当時、おもしろいとかいう感想は特に抱かなかった。エロチャットの部分を読み返すくらいで。

それが十年経った今になってみると、こういう世界は案外、自分たちとは切り離せない位置にあることに気が付く。人妻、というある種の禁忌要素に共感すら覚えるのだ。あの頃は到底受け容れられなかった不健全さが、いつの間にか健全になっている。という非常に不健全なことが起こっている。わたしは思わずうなった。

そういえば当時の自分にとって、聖璽は救世主だったはずだ。たくさんの人々とチャットで淡々と交わすセックスに感覚が麻痺した頃、突然日常を彷彿とさせる「人間」が現れる。これでようやく帰ることができる、とホッとした記憶がある。だからこそ、聖璽という名だけが今日まで、脳に強烈にインプットされるに至ったのだと思う。

けれども、今は違う。数多のセックス星人は猿として置いておいても、聖璽は救世主と呼ぶにはあまりに幼稚だ。3時間のチャットは彼の悪あがきでしかないし、朝子とかずよしが感化され日常に戻ったのは、彼女らがまだこどもだったからだ。現に、綿谷りさは作家として今、こちら側にいる。

かずよしがしきりに「病んでいるのかな」と自分の心を気にするのも、彼自身がまだ自分の居所を把握できていないことに起因している。幼いから仕方ないことのようにも思う。朝子もそうだろう。だから「このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい」。きっとこの気持ちは感じてみなければわからない。一度堕ちたことがある人間でなければわからない世界が、そこにはあるからだ。

 

©しゅり

 

 - しゅり

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