都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』
2014/09/03
「都甲幸治は裸で叫んでいる」というオビ文が彼の新刊についていた。確かにそうだ。彼は裸で叫んでいるような気がする。例えば、「偽アメリカ文学の誕生」の序文で彼は裸で叫んでいる。
序文ではこの本のタイトルにもある「偽アメリカ文学」という概念が説明されている。「偽アメリカ文学」とは要するに、翻訳されたアメリカ文学だ。師である柴田元幸が訳したポール・オースターの作品はオースターの作品とは決定的に違う。オースターは日本語でしゃべらないのだからあたりまえだ。それはアメリカ文学ではなく、「アメリカ文学のようなもの」でしかない。だが、その質をどこまでも高めていくことで「どこまでも偽物」ながら「本物」の価値がある文学、「偽アメリカ文学」を作れるのだと、都甲は言う。
そして同時に、序文では「偽アメリカ文学」という考えに行きつくまでの都甲幸治の半生があられもなくさらけだされている。都甲は数冊の翻訳を出版したのちアメリカに留学する。30を超えたころだったそうだ。
都甲はそこで誰も自分がアメリカ文学を語ることに興味を持たないのを知る。日本にいるときは、彼はアメリカ文化の伝道者として振る舞っていた。しかし、アメリカ人は日本人がアメリカ文化を語ったところで興味を持たない。私達だって(ドナルド・キーンのような例外はまだしも)、外国人が歌舞伎を語ったところで鼻で笑うだけだろう。
アメリカ文学はアメリカ人のものだ。その端的な事実が都甲の前に立ちはだかる。では、どうするか。日本文学の研究でも始めるか? 悩める都甲が考えだしたのは「偽アメリカ文学」という概念だった。アメリカ文学でもなく、日本文学でもない、マージナルな文学。
「偽アメリカ文学」という概念はこのように屈折を孕んでいる。そして、そのような屈折がこの本の通奏低音となっている。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデンのニューヨーク彷徨は弟アリーへの死への喪だと都甲はいい、村上春樹の“西洋文化への憧れる自分は西洋人ではないという気付きから小説を書き始めた”という発言を取り上げる。「届かないもの」がこの本の裏にあるテーマだと言える。
都甲幸治はいまも翻訳を続けている。彼は届かないものに向かって叫び続けることにしたのだ。ごまかすことなく屈折を受け入れて、裸で。
©こーじ
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