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小川洋子『薬指の標本』

      2014/08/18

 

 

辛い出来事や悲しい過去を全て自分から切り離して遠ざけてしまいたい、過去を自分の中に留めておきたくない、と何度願ってきたことだろうか。この物語における標本室は、そんな私の願いを叶えてくれるような場所として描かれている。

標本室とは本来、適度な処置を施して生物を標本にし、研究のためにより良い状態で保管しておく場所を指す。しかし、この物語における標本室は、人々が思い入れのある品々を持ち込んで、過去を封じ込め、分離し、完結させるための場所として描かれている。過去を完結させたい人々は、火事の焼け跡から生えてきたきのこや、死んでしまった文鳥の骨、昔の恋人が書いた楽譜など、様々なものを標本室に持ち込んでくる。

この標本室を管理するのが、主人公である「わたし」と標本技術士の弟子丸氏の2人である。標本室で共に仕事をするうちに、「わたし」は弟子丸氏に恋心を抱くようになる。火傷の跡を標本にしてほしいと言った女の子が弟子丸氏と共に地下の標本技術室に入って行ってしまった出来事以来、「わたし」は弟子丸氏へ独占欲を抱くようになり、自らを標本の一部になって弟子丸氏の視線をいっぱいに浴びたいと願い、やがて自らも地下の標本技術室へと足を向ける。

この物語は非現実的な世界に現実性を包含し、また現実的な世界に非現実性を包含している面があり、曖昧な現実観が物語の不思議さをよりいっそう引き立たせる。恋愛の描写においても、弟子丸氏から「わたし」への支配力の象徴としての「靴」がキーポイントとなって描写されているが、「恋愛対象への束縛」という現実的な事象と「足が靴に同化していく」という非現実的な事象が織り交ぜられている。

ほの暗く、深い静けさに包まれて、かと言って陰鬱ではなく、透き通っていて、人を受け入れてくれるような優しさを孕んだ美しい文章は、小川洋子ならではなのかもしれない。陰鬱なだけの文章であったら溢れんばかりに存在するが、陰を作り出している淡い光までも描き出している文章に敬服する外はなかった。

この物語を読み終えて本を閉じると、胸のわだかまりがとけ、心が浄化されるようななんとも心地の良い感覚にしばらくの間浸っていた。

 

©R

 

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