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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

      2014/08/17

 

 

自分がもっている小さな頃の記憶、イベントではなく、脈絡もはっきりしないような切り取られたイメージ。例えば、私の場合、4歳くらいの時に近くの友達の家に遊びにいって、その家の鳩時計を見ていたシーンを覚えている。音は無く、夕方で、部屋の中は光が点いているのに、少し薄暗い。友人の両親、あるいは母親だけかもしれない、が側にいる感じがする。もう帰らなくてはいけない時間で、4時か5時か6時か、そのくらい。イチゴのイメージがある。友達のあだ名だったのかもしれない。この判然としないのに明確な輪郭を持っている記憶は、自分の記憶のどこか深いところ、既に容易には動かせない、ゆるがせない部分に根を下ろしていて、どこかでいまの私があることを支えている。

誰でもいくつかは持っているかもしれない、そんな印象的で“確乎とした”記憶、それを一つずつ書いているようだと思った。少しプルーストの『失われた時を求めて』を連想するが、文体が全く違うため、すぐに忘れてしまう。話の筋は森博嗣の『スカイ・クロラ』も思い出させる。しかし、まず思ったのは、これがそのように、大切な、人をつくっているような記憶を書いているということだった。そしてそれらの記憶が、本当のことのように迫ってくる。本来、これらの記憶は本人が思い返すことでのみリアリティを持つはずなのに、それが読み手に起こる。

たとえば、次のような、書かれている内容が物語内の生活の日常的なことでありながら、ほんの少しいつもと違うことを書く箇所でひき込まれる。

誰かがイーゼルを全部持ち去ってしまって、わたしたちはしかたなく画板を膝に置いて作業をしていました。(P155)

この文章の後にも先にも持ち去られたイーゼルのことは出て来ない。それはただ、日常とほんの少し異なることとして書かれ、その結果「わたしたちはしかたなく画板を膝に置いて作業をしていた」のだ。そのことで、シンシアとのおしゃべりの距離が縮まり、この後の会話シーンがより美しく、そしてこれ以外には起こりえないと思わせるようになる。

しかし、読み手の私は普段イーゼルがここに置いてあることも、そのときにどうやって「わたしたち」が絵を書いていたのかも知らない。それを書かず、少しだけ普段と違うことを書くことで、その前提を私も共有しているかのような、まるで私もその記憶を共有する権利があるような、そんな感覚になる。

語り手は、本来自分の日常的な状態について詳細に語ることはない。彼女の中では語るほどのことではないからだ。だからその前提を共有することで「ヘールシャム」での記憶がうっとりするような濃さで私に染み込んで来る。自分の人生をつくっているもう一つの記憶の体系を描き出されていくように。それはだから、読むごとに、作中の「宝箱」の中に大切なものを貯めていくような経験、それを思い出すような経験になる。すでに、記憶は知っている。それを私たちは描き出されると同時に思い出し、自分のものとしていく。

ストーリーは「提供者」という言葉でかなり予想がつく。ここに書かれるのは、“普通の”人間ではないとされる。しかし彼らの成長を見ていると、人間は少しずつ死んでいくのだ、と思う。それは普通のことだ。そして彼ら「提供者」である人間も、いっそう過酷かもしれないが、少しずつ死んでいく。そのことは具体的な「提供」とは関係が無い。そうではなくて、かれらは「ヘールシャム」 「コテージ」での記憶を手に入れ、そして失いながら、すこしずつ死んでいく。古典的だがそれ以外に彼らが生きているということを書くことができない。

自分の記憶を整理できないように、うまく整理することのできない物語だと思う。それは読んでいるときだけ、私の記憶になっている。別の記憶が欲しいと思うときに(もちろんそうでなくてもいいけれど)また読んでみたいと思う。

 

©美慕

 

 - 美慕

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