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深澤七郎『楢山節考』

      2014/08/16

 

 

歳をとっても、歯が綺麗に生え揃っているのは恥。ひ孫の顔を見るほど、生きながえてしまうのは恥。貧しい集落であるが故に生まれた価値観は、火打石で自らの歯を砕く、高齢の親を山に捨てに行くといった、酷烈な行動を村人達に起こさせる。

口減らしのために老人を山に捨てなければならないという習わしは、今の私達からすれば普通でないことである。しかし作中の世界において、棄老に対して誰も疑問を抱いていない。因習を否定する者はおろか、自身の残酷な宿命を嘆く者すらいない。死にたくない一心で棄老を拒む老父は登場するが、彼が棄老そのものを疑問視するような描写はないのである。皆の「口減らしは当然のこと」という価値観は変わることなく、淡々と話が進んでいく。そして最後には、主人公の母も当たり前のように山へ捨てられてしまう。

先にも述べたが、楢山節考では、棄老の是非について全く触れられていない。ただただ、因習の中を生きる村人達が描かれているだけである。だがその因習は、貧困という背景があることを理解していても、我々読者には異常に思えてしまう。土台の歪みは、作品から常に不気味さを醸し出す。その不気味さは、読者の胸中にあるさざ波をたてる。私達にも何か普通でない因習があるのかもしれないという疑念である。

日々の生活の中で、実は棄老並みにとてつもなく恐ろしいことを、私達は平然と行ってしまっているのではないだろうか。しかし私達はそれを、当然のことだと見なしている。それが当たり前である環境の中に生きている。故に事の異常さに、村人達がそうであるように、誰も気が付いていないのではないだろうか。そんなわだかまりが、胸に残るのである。

もちろんただの杞憂かもしれない。逆に言えば、私の方が村人よりもよっぽど異常な価値観を持ち合わせているかもしれない。だが、確認する術は何もない。楢山節考は、因習の残酷さに深く迫らないことによって、私達が秘めているおぞましき可能性を提示しているのである。

 

©つじどう

 

 - つじどう

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