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スティーブンスン『ジーキル博士とハイド氏』

      2014/08/16

 

 

スティーブンスンの「ジーキル博士とハイド氏」を読んだ。この世界的名作とも言える中編小説を、私が今日まで読んだ事がなかったというのは一にも二にも自分の怠惰を省み、また悔いるべきだと思う。小説の内容は、最早ここで多言を要しないであろうし、何よりこの作品が所謂物語の筋書きを楽しむようなものに留まらない事は、恐らく世の多くが私より遥かに承知しているところであろう。

この一見すると、ヘンリー・ジーキルという実に好ましい紳士に秘められた二重人格を語った小説は、明らかに人間個人と社会に根ざされた深い醜さ、それも善と徳性という邪悪をモチーフとしている。当然に、登場人物や物語の情景は、実に意味深長な描かれ方をされ、様々な伏線がちりばめられながら構成されている。だが、これこそが「ジーキル博士とハイド氏」をして他を圧倒する傑作たらしめている所以であろうけれども、冒頭から小説を読み進めていてそうした技巧に気づくのは終盤まで読み終えてからなのである。読者は作品を読む行為を通して、まさにアタスン氏がしたのと同じように、ハイド氏のベールを少しずつ暴いていく営みに加わるのだ。

この作品では各章ごとにジーキル博士とハイド氏とが交互に立ち現れる、まるで螺旋階段のような構造になっている。そこを一段ずつアタスン氏がひとつの鍵を握りながら登っていく。そういう景色が、今私の頭の中にはある。この階段は、はたから見ればアタスンがジキルとハイドの両極に振られながら高みを目指すものであろうが、肝心のアタスンはただひとつの道を登っていると感じるに過ぎない。そうやって終いに辿り着いた頂上でアタスンは、まるで天を求めたバビロンの民のように、破局的結末を知ることになるのである。作品が、最後ハイド氏について語ったラニョンの手紙と、ジーキル博士の手記とで終わり、アタスン氏が舞台から去っている事も印象的であるし、何よりジーキルで締めくくりつつ、物語の最後に一気に吹き出しているハイド氏の存在感を思うとき、ついにそこまで連なってきた小説の全ての伏線は回収され終え、すとんと本に吸い込まれてしまう。私にはこの不気味な解放感こそ、この作品の極致であるように感ぜられるのである。

二重人格の例えでは、空前絶後、この作品に及ぶものはあるまい。それは「ジーキル博士とハイド氏」がまさに古典と呼ぶに相応しい普遍的な秀逸さを兼ね備えているからに他ならない。しかしまた同時に、私たちは常に自らの内にジーキルとハイドを覚え、小説を読んで、二重性が特殊なものでなく、また怖れるにはあまりにも憐れむべき人間の性であると知るからであろう。
近代という時代は、私たちの生きるこの世界は、スティーブンスンにかかる悪夢を見せるほどに病んでいるのかも知れない。

 

©がちょポン

 

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